2012年 01月 06日
年の初めに |
今年初めての投稿なので、年賀のあいさつから始めようかと思ったけれど、今年はそんな気になれず、どういう書き出しにしようかと悩んでしまった。
11月下旬に五日ほど東日本大震災支援公演に行ったことがその想いを強くし「明けましておめでとうございます」と、とても言う気持ちにはなれなかったからだ。
今年は年賀状をやめようかとさえ思ったが、考えてみると、あの惨状の中で生き残った人たちには、「命あって良かったね、おめでとう」と言ってもいいのかもしれないと今また思い返し始めた。
被災地で「もらった命だから、大事にしなきゃ」と何人かの人に聞いた言葉が蘇ってきた。被害にあわずのんびり暮らしている私には「もらった命」という感覚は全くなかったが、14年前、生存率は低いと言われた大病で手術をし、4ヶ月の入院生活の間、そして退院後も、多くの人たちに励まされ復活し、今日あるのも「もらった命」。
昨年1月4日は、ちょうど一年前、脊柱管狭窄症で入院手術した一周年の日になる。
命にかかわるような病気ではないにしても「このままでは歩けなくなる、手術しかない」と言われたのに、おかげで舞台にも立てるようにまたまた復活、不死身の西川だと言われているが、これだってもらった命。
人生をさかのぼって考えると一杯思いつくことがある。
子どもの頃ジフテリアで入院・腹膜・肋膜の併発で命を落としそうになった。何しろ、腺病質で10歳まで生きられるかどうかと言われた弱虫が、ここまで生きられ、今あるのも、医学の力もさることながら、両親とりわけ母親の献身的な看病の力が大きかったに違いない。
戦時中そして終戦後、食糧難時代に自分が食べなくても、食べざかりの子どもに与え育ててくれた母親、これも「もらった命」例をあげればきりがない、今生きているのはやはり「もらった命」。
自分で生きているのではない、生かされているのだ。
あれほどの災害にあいながらも、被災地の人々は決してくじけてばかりではない。
復興のため立ち上がろうと、努力している姿を見るとこちらが励まされる。
「もらった命を大事にしなけりゃ、犠牲になった人たちに申し訳ない」という想いが、あの人たちのエネルギーになっているような気がする。
70代も後半に入り平均寿命に近づいてきた、残された人生、もらった命を大切にいい芝居を創っていきたいと年の初めに思った。
そんな想いを年賀状に変えて投稿してみました。
今年こそ良い年にしたいものですね。
11月下旬に五日ほど東日本大震災支援公演に行ったことがその想いを強くし「明けましておめでとうございます」と、とても言う気持ちにはなれなかったからだ。
今年は年賀状をやめようかとさえ思ったが、考えてみると、あの惨状の中で生き残った人たちには、「命あって良かったね、おめでとう」と言ってもいいのかもしれないと今また思い返し始めた。
被災地で「もらった命だから、大事にしなきゃ」と何人かの人に聞いた言葉が蘇ってきた。被害にあわずのんびり暮らしている私には「もらった命」という感覚は全くなかったが、14年前、生存率は低いと言われた大病で手術をし、4ヶ月の入院生活の間、そして退院後も、多くの人たちに励まされ復活し、今日あるのも「もらった命」。
昨年1月4日は、ちょうど一年前、脊柱管狭窄症で入院手術した一周年の日になる。
命にかかわるような病気ではないにしても「このままでは歩けなくなる、手術しかない」と言われたのに、おかげで舞台にも立てるようにまたまた復活、不死身の西川だと言われているが、これだってもらった命。
人生をさかのぼって考えると一杯思いつくことがある。
子どもの頃ジフテリアで入院・腹膜・肋膜の併発で命を落としそうになった。何しろ、腺病質で10歳まで生きられるかどうかと言われた弱虫が、ここまで生きられ、今あるのも、医学の力もさることながら、両親とりわけ母親の献身的な看病の力が大きかったに違いない。
戦時中そして終戦後、食糧難時代に自分が食べなくても、食べざかりの子どもに与え育ててくれた母親、これも「もらった命」例をあげればきりがない、今生きているのはやはり「もらった命」。
自分で生きているのではない、生かされているのだ。
あれほどの災害にあいながらも、被災地の人々は決してくじけてばかりではない。
復興のため立ち上がろうと、努力している姿を見るとこちらが励まされる。
「もらった命を大事にしなけりゃ、犠牲になった人たちに申し訳ない」という想いが、あの人たちのエネルギーになっているような気がする。
70代も後半に入り平均寿命に近づいてきた、残された人生、もらった命を大切にいい芝居を創っていきたいと年の初めに思った。
そんな想いを年賀状に変えて投稿してみました。
今年こそ良い年にしたいものですね。
by ohitoriza
| 2012-01-06 11:26